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角館の歴史を知る

  • 角館
    戦国時代には戸沢氏の本拠地。
    慶長5年(1600年)5月3日、徳川家康は会津征伐のため東国の諸大名を京都に招集した。義宣もこれに応じ、同年5月中旬、京都に到着した。同年6月6日、招集された諸大名の進撃路が発表され、義宣は仙道口を任されることとなり、水戸へ帰った。

    義宣は、慶長5年(1600年)7月19日ころ、上杉景勝との間で上杉方に与する旨の密約を交わしたようであり、自軍の赤館以北への進軍を差し止めた。密約は交わしたものの、佐竹氏内部に積極的に石田方に付こうとする空気が醸成されておらず、義宣は内部の意志統一がなされていない状態で密約を交わしてしまった。
    慶長5年(1600年)7月24日、小山に到着した家康は、水戸にいた義宣に使者を派遣し、上杉景勝の討伐を改めて命じた。この際、家康の使者は、人質を上洛させるよう要求したが、義宣は、会津征伐は豊臣秀頼に代わって実施されるものであり、自身は秀頼に逆らう意志はないから新たな人質を出す必要はないとしてこの要求を断った。また、家康は、佐竹氏に預けられていた花房道兼を呼び出して、義宣の動向を確認した。この時期の佐竹氏の動向は、東軍につくとも西軍につくともいえないものであった。
    8月25日、義宣は突如として水戸城へ引き上げた。義宣は家康に対し、重臣・小貫頼久を使者として派遣し、水戸城へ帰った理由を釈明させ、また、上田城に拠る真田昌幸を攻撃していた徳川秀忠への援軍として、佐竹義久に率いさせた300騎を送った。

    関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わると、義宣は、徳川家康及び秀忠に対し、戦勝祝賀の使者を派遣した。これに対する秀忠からの礼状は届いたが、家康からの礼状があったか否かは不明である。義宣は、上杉景勝が未だ伊達軍及び最上軍と対峙しているのをみて、佐竹氏に累が及ぶことを恐れ、家康に陳謝すべく伏見へ向かった。途中、神奈川で会った秀忠に対して陳謝し、伏見に到着した後、家康にあって謝罪及び家名存続の懇願をした。『徳川実記』によれば、徳川家康は、義宣のことを、「今の世に佐竹義宣ほどの律儀な者はみたことがない」「しかし、あまり律儀すぎても困る」と評したとされるが、これは会津征伐における義宣の態度を念頭に置いたものである。

    関ヶ原の合戦後1602年(慶長7年)それまで統治していた戸沢氏が、
    常陸多賀郡(今の茨城県日立市)へ転封となり、佐竹氏は当時統治していた茨城県水戸から転封となり秋田へ入部し久保田藩領となる。
    角館へは翌1603年(慶長8年)、佐竹義宣の実弟にあたる蘆名義勝が所預(ところあずかり)として角館に入った。蘆名氏の支配は3代続いたが、1653年(承応2年)の蘆名千鶴丸の死により蘆名氏が断絶。代わって1656年(明暦2年)に佐竹氏の分家である佐竹北家の佐竹義隣が角館に入り、以降明治まで11代続いた。
    今に続く角館の町並みをつくったのは蘆名氏(あしなし)と言われています。
     玉川と桧木内川に沿いに市街地が拓け、三方が山々に囲まれたこの町は、歴史ある武家屋敷と桜並木が美しい、まさに「みちのくの小京都」と呼ぶにふさわしい風情を漂わせた観光名所です。